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開催日

8.18(Sun)

場所

下北線路街 空き地

主催者

佐野陽菜

イベント

下北沢の記憶

|概要
と き:8月18日 13:00-16:00
ところ:下北線路街 空き地

|展示会に寄せて。
私は、誰からも置いていかれてしまった、その日常をずっと覚えていたい。

幼少期から日本、そして世界を点々とする生活を過ごした。東京/中国/静岡/ブラジル…。各地を渡り歩き、その地の文化や言葉を違え、世界の広さに感銘を受けた。毎日が刺激的で未知が溢れるこの世界に面白さを感じていた。それらの「場所の記憶」は、私の脳裏に記憶の一部として深く刻みこまれている。しかし、中学進学後、私の世界は一変した。学校から課せられる大量の課題と週4日の部活動。日常のささやかな美しさを含んだ景色がいつの日か代わり映えのしないモノクロの毎日に移り変わった。最寄り駅周辺の街や学校近くの商店街などの私を取り巻く日常世界に目を向ける余裕や意識が完全に奪われた時期を過ごした。今月末に控えた試験のこと、部活の大会に向けたスケジュールのこと、成績のこと、そして鳴り響くスマホの通知。歩いていても私の周りでどんなことが起きているのか、些細な生活音はイヤホンのノイズキャンセリング機能で失われていくし、すれ違う人々も同じように意識は「いま」ではなく何処か遠い彼方へあるような気さえした。

そんなある日、私は「日常に溢れる潜在的な美に向ける人々の意識」が御座なりになっている現実を突き付けられた。現代を生きる私たちはあまりにも資本主義のしがらみに囚われている。Twitterは自己承認を補完/増幅する装置と化し、反知性的な議論や心のない誹謗中傷、罵り合いが横行するプラットフォームとして機能する。「流行」に人々は敏感になり、ただそれだけを求めて、浮遊し経済的合理性に最適化していくこの社会は非常に忙しなく、毎日がオリンピックのようだ。その一方で日常に立ち現れる普遍的で儚い一瞬が駆け巡る時間の最中に私達の感性は何らかを感じ取り何かしらの美が自然発生的に発露していることを私達は知る由もない。多くの人はそうした日常の美やそこで想起された自らの記憶の種に対して想いを馳せ、それを他者と共有し分かち合うほどにコンクリートで覆われた日常世界で感性を研ぎ澄ませる時間はない。

「世界はいつも決定的瞬間だ。」
これは、写真家である森山大道の言葉である。この言葉の裏側には、決して派手ではないけれど、日常に佇む美しさを否定しないだけの力がある。昨今の震災被害からも、何気ないと信じ切っていた日常が一瞬で豹変してしまう自然の脅威を直視せざるを得ない。

そこで私は今こそ人々の内に秘めるそれぞれの記憶の種を具現化し街と一体化して「アーカイブ」する必要性に駆り立てられた。その問題意識の足掛かりとしてあるPJを立ち上げた。それは、デジタルアーカイブという手法を用いて、写真と言葉でその風景に対して想起した記憶を言語化し、地図上に可視化/共有知化していく取り組みである。コンセプトは「誰かの記憶に寄り添う、記憶の集積地」。名付けて「LOCAL LOG」。

しかし、デジタル空間に格納されていく記憶の流出はそれに留められないほどの声を持っていたように思う。1つ1つの風景や情感から浮かび上がる何かは私に手触り感のある質量を求めていた。落合陽一は言う。「質量のないものは忘れる。質量のあるものは壊れる。」と。前述したように、私は誰からも置いていかれてしまった、その日常をずっと覚えていたい、そう感じる。だから、それを質量のある何かに変えて一時的にでもアーカイブできないだろうかと考えた。そこで、私の調査対象である下北沢という土地で展示会という形で街の風景に記憶の声を表出させることで3時間の痕跡を残したい。

初の試みであるが、実験的に記憶の展示を実施する。通り掛かりにでも覗いてもらえることを願っている。

2024/07/31 佐野陽菜

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展示会に際して皆さんから下北沢に纏わる記憶を募集します。是非ご協力ください。

記憶の格納はこちらから

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